鳥居清長
桟橋の涼み
とりいきよなが さんばしのすずみ
「築たてしすゝしさひろし不尽(富士)高し」の讃句により、二美人の涼んでいる棧橋が中洲のものであることがわかる。明和9年(1772)から隅田川の下流に埋立地が築かれ、安永4年(1775)に町屋が移されて三股富永町となる。俗に中洲新地と呼ばれ、高級料理屋、茶屋などで町全体が歓楽地のようで、特に夏場に賑わった。大洪水の被害にあい、寛政元年(1789)に元の如く取払われたが、中洲の繁栄は清長の全盛と時期を同じくしたため、その様子が描かれている。
【天明2年(1782)頃】